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聖徳太子ゆかりの地!ぼたんの名所、京都府長岡京市にある「乙訓寺」とは?

2018.03.15

乙訓寺(おとくにでら)は、京都府長岡京市にある寺院。「今里の弘法さん」「牡丹の寺」とも呼ばれていて、市民や観光客に広く親しまれています。
毎年4月下旬から5月上旬にかけては境内に「牡丹」の花が咲き誇り、たくさんの参拝客でにぎわいをみせます。
今回は、数々のドラマティックな歴史に彩られた乙訓寺の魅力を紹介しましょう。
 

長岡京市・乙訓寺の由来と歴史

京都乙訓寺

乙訓寺は603年頃の飛鳥時代に、推古天皇の勅命によって聖徳太子が創建したと伝えられています。
京都最古のお寺「広隆寺(こうりゅうじ)」と同時期に創建され、長岡京市周辺一帯、いわゆる乙訓地方で最も古い寺院だと考えられています。ちなみに広隆寺は京都・太秦(うずまさ)にある寺院で、京都三大奇祭のひとつ「太秦の牛祭」でも有名ですね。
 

乙訓寺の日限地蔵尊

乙訓という名前の由来は、乙訓寺が創建される前の古代にまで遡ります。
京都の南部「山城国(やましろのくに)」にあった「葛野郡(かどのぐん)」から独立して新たな郡をつくるにあたり、葛野郡を「兄国」、新たな郡を「弟国(おとくに)」と呼んだのが始まりなのだそうです。
  

日本最古の歴史書「日本書紀」には、弟国についての記述があります。507年に即位した第26代天皇「継体(けいたい)天皇」は、518年に都を弟国に移しました。
弟国宮が築かれたのが、現在の乙訓寺がある一帯だと推測されているため、乙訓寺は継体天皇が築いた弟国宮の宮跡だという説も有力視されています。
 

長岡京跡と桜

時は移って784年、第50代天皇「桓武天皇」は、都を奈良から乙訓地方の「長岡京」に移しました。
長岡京は平城京にもひけをとらない、東西4.3km、南北5.3kmに及ぶ壮大な都。
長岡京に都が移されると、乙訓寺は都の地鎮として重視され、大々的に増築されます。その広さは南北百間以上にも及び、九間に四間の大講堂も建築されました。
  

長岡京は名実ともに、政治だけでなく経済や文化の中心となったのですが、794年には早くも平安京に都が移されてしまいます。なぜわずか10年で、長岡京から平安京に遷都されてしまったのでしょうか?

その大きな原因に、実は乙訓寺が絡んでいたのです。

 

乙訓寺と平安京遷都の関係とは?

乙訓寺

桓武天皇が都を平城京から長岡京に移すにあたって、事実上の責任者となったのが「藤原種継(ふじわらのたねつぐ)」です。
「続日本書紀」によると、桓武天皇に「天皇はなはだこれを委任す,中外の事皆取り決むるなり」といわしめるほど種継の信頼は厚く、遷都先として長岡を提案したのも種継だといわれています。
  

しかし、長岡京に遷都した翌年の785年9月23日、種継は暗殺されてしまいます。種継暗殺の首謀者は、奈良時代の歌人「大伴家持(おおとものやかもち)」だといわれていますが、暗殺直前の8月28日に死亡してしまいました。
桓武天皇の怒りは相当なもので、家持は既に死亡しているにも関わらず官位ははく奪され、暗殺の実行犯や共犯者は斬首刑となり、その子どもたちまでも流罪の刑を受けました。
 

崇導神社

暗殺団との交流を疑われてしまったのが、桓武天皇の実弟で皇太子でもある「早良親王(さわらしんのう)」です。
早良親王は嫡子としての身分を廃止され、乙訓寺に幽閉されてしまいます。親王は断食することによって無実を訴えますが、約10日後に淡路島へと流されてしまいました。
そして、淡路島へ流される途中で、無念のうちに息絶えてしまうのです。
  

早良親王がこの世を去ったあと、桓武天皇の生母や皇后が相次いで亡くなったり、皇太子が重病に見舞われたりという悲運が続きます。さらに追い打ちをかけるように長岡京で悪疫が流行し、792年には2度の大洪水に襲われました。
これらの出来事は、早良親王による祟りだと考えられたため、祟りから逃れるべく都を長岡京から平安京に移したのだといわれています。
暗殺事件から15年後の800年には、祟りを鎮めるべく「崇道(すどう)天皇」という名が親王に贈られ、京都には崇道神社が創建されて早良親王の霊を現在でもお祀りしています。
 

乙訓寺が今里の弘法さんと呼ばれる理由は?

乙訓寺 弘法大師像

806年に桓武天皇が崩御すると、天皇の第一皇子であった「平城(へいぜい)天皇」が第51代天皇に即位します。しかし病弱だったこともあり、809年には第二皇子である「嵯峨(さが)天皇」が第52代天皇に即位しました。
嵯峨天皇は811年、空海(弘法大師)を乙訓寺の別当に指名します。
早良天皇の祟りを恐れた嵯峨天皇が、空海の祈祷に期待したからだと考えられています。
  

空海は、真言宗の開祖として有名な僧侶。空海が別当(祭祀の主催・僧侶達の長のこと)を務めたことにより、乙訓寺は真言宗の寺院となりました。乙訓寺は歴史の表舞台に登場するようになり、益々の発展を遂げていきます。
812年には、天台宗の開祖である「最澄(伝教大師)」が乙訓寺を訪れ、空海と密教についての法論を交わしたのだそうです。
日本を代表する別宗派の開祖が、法論を交わす姿を想像したら微笑ましいですよね。
  

ところで、空海=弘法大師、最澄=伝教大師という呼び名がどう違うのか疑問を抱いたことはありませんか?
実は弘法大師、伝教大師という呼び名は、生前の業績を称えて死後に贈られる「諡(おくりな)」なのだそうです。
長岡京市今里にあり、弘法大師ゆかりのお寺であることから、乙訓寺は「今里の弘法さん」として市民に親しまれています。
 

乙訓寺が牡丹の寺と呼ばれる理由は?

空海のもとで隆盛を誇った乙訓寺ですが、室町時代になると不遇の時代を迎えます。第3代将軍「足利義満」によって乙訓寺の僧侶たちが追放され、真言宗から禅宗に改められてしまうのです。
乙訓寺が再興したのは、江戸時代に入ってから。1695年に5代将軍「徳川綱吉(つなよし)」の生母「桂昌院(けいしょういん)」が援助したことにより、乙訓寺は以前の輝きを取り戻し始めます。
  

徳川綱吉の護持僧(ごじそう)であった「隆光(りゅうこう)」は、空海ゆかりの寺院が禅寺になっていることを嘆いていました。
護持僧とは、天皇を守るために祈祷を行う僧侶のこと。綱吉の信頼が厚かった隆光は、自ら願い出て乙訓寺の住職となり、寺の復興に尽力します。
隆光は綱吉から500両、桂昌院からはは300両を寄進され、寺領として100石を与えられました。
そして乙訓寺は真言宗に改められ、徳川家の祈祷寺となり、諸大名や公家たちの信仰を集めるようになりました。
 

江戸時代に復興を遂げた乙訓寺ですが、「牡丹の寺」と呼ばれるようになった歴史はそう古くはありません。
乙訓寺が牡丹の寺と呼ばれるようになったきっかけは、1940年頃まで遡ります。
  

乙訓寺は美しい松の並木道で有名だったのですが、1934年の台風によってほとんどの木々が莫大な損害を受けてしまいました。
その悲惨な状況を見かねた真言宗豊山派の総本山「長谷寺(はせでら)」の第68代住職は、愛育していた牡丹のうち2株を乙訓寺に寄進します。
始まりは2株だった牡丹も、乙訓寺の歴代住職たちの尽力によって、現在では2,000株まで増えました。

現在の乙訓寺では毎年4月下旬から5月上旬になると、牡丹の花が境内を彩り、私たちの目を楽しませてくれます。
しかし乙訓寺が牡丹の寺と呼ばれるまでには、さまざまな苦難や悲劇、災難がありました。
境内に咲き乱れる牡丹も、たった2つの株から始まったなんて想像もできないですよね。乙訓寺の歴史を知ったうえで境内を見渡せば、牡丹ひとつひとつの表情やお寺の建物、まとう空気も違って見えそうです。

 
長岡京市にある乙訓寺は、聖徳太子や弘法大師ともゆかりがある由緒正しき寺院。一方で歴史に翻弄され、隆盛と衰退を繰り返してきました。
現在では牡丹の花が咲き誇る美しい寺院として知られ、4月下旬から5月上旬にかけては多くの観光客で賑わいをみせます。
京都を訪れたらぜひ乙訓寺にも足を運んで、1,400年の歴史をご自身の目と肌で感じてみませんか?

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